「失礼します」
重厚なドアを開け中に入り四十五度に頭を下げる。
「四月一日付けでこちらに移動になりました。宜しくお願い致します」
「こちらこそ宜しく頼みます」
「はい」
「これが社長の今月と来月のスケジュール表です。確認しておいて下さい」
「はい」
そう返事をしてスケジュール表を受け取った。
「では戻ります」
渡された資料を片手で抱き、一礼して去ろうとする背中に奥から慌てたような声が聞こえて来た。
「ちょ、ちょっと待て!」
「社長、何か?」
「何かじゃあないだろう。俺を無視するなって言っているんだよ」
「無視している訳ではありません。僕は第二秘書です。そうそう社長と口が利けるとは思っていません」
「まだ怒っているのか?」
「何の事でしょうか?」
取り付く島のない第二秘書に縋るような視線を送るが、ちゃんと見てもらえずに社長は肩を落とす。第一秘書は自分には関係無いと言うふうに自席に戻り、パソコンを開き始めた。
「なあ、もう二年もいたからいいだろう?」
「たった二年です」
そう、彼は望まぬ移動を余儀なくされ少々立腹していたのだ。入社三年目で社長の第二秘書に抜擢された事が気に入らない者がいる。それが彼、堂本紫苑だ。
「なあ……紫苑」
「ここでは、櫻井と呼んで下さい」
「はぁ……」
紫龍が深い溜息を吐いている所へ浅田の冷酷な言葉が投げかけられた。
「そろそろお時間です」
浅田の言葉に、紫苑も渡されたスケジュールをちらっと見る。
「三井会長との昼食ですね」
そう言いながら紫苑は腕時計で時間を確認した。その姿を見て今まで憂鬱そうだった紫龍の頬が緩む。紫苑の腕に巻かれているのはお揃いのカラトラバ。福利厚生課にいる頃は、国産の安価な年相応の物を付けていたのを知っている。
紫龍が気づいた事を知り紫苑は諦めたように、小さな笑みを零した。
「本当に、そろそろお時間ですよ」
その声色はもういつもの紫苑だ。それに安心したように紫龍も身支度をする。その顔がもう経営者の顔に変わっている事に浅田も肩の荷を下ろした。本当の意味ではまだまだ荷は下ろせないが、覚えの良い紫苑の事だ、自分の負担が軽減される事は分かり切っている。何よりも紫龍が機嫌良く仕事をしてくれる事が一番だ。
「では、行って来る」
「行ってらっしゃいませ」
エレベーターの前で紫苑は頭を下げて二人を見送った。そうしてエレベーターが地下駐車場に無事到着した事を確認して、小さく吐息を漏らした。この会社に就職して三年目。自分の中では公私の区別はついていた筈だが、近くで仕事をする事になって多少不安に思っていた。だがそれは自分ではない。社長である紫龍の方が、公私の区別が出来ていなくて頭を抱えたくなっていた。
昼休みになり紫苑は持参した弁当をひとり食べていた。以前バイトに来ていた時に与えられた部屋は今でも残してある。食後の珈琲を淹れようとして豆を切らしていた事に気づいた。紫龍が戻ったら美味しい珈琲を淹れてあげようと思っていた紫苑は、食事を済ませ二階にあるカフェに向かった。
「いらっしゃいませ」
紫苑が店内に入ると直ぐに声が掛かった。だがその顔に見覚えはない。背の高い青年は、ソムリエエプロンが良く似合っていた。紫苑は席に案内しようとする青年を制して、珈琲豆を買いに来た事を告げる。
「あの、店長は留守ですか?」
「はい」
そう答えながらも訝しげな顔で紫苑をじっと見つめている。堂本ブレンドは店長でなければブレンド出来ないのだ。
「う……ん、困ったな。出直します」
紫苑が軽く会釈をして出て行こうとした時にその青年に腕を掴まれた。
「ちょっと待って。俺のブレンドした珈琲を飲んでみて」
青年の提案に、紫苑は時間を確認した。
「十五分しか時間がありません」
「慌てて飲ませて火傷させるわけには行かないから、持ち帰り用のカップにしていい?」
「それでいいですよ」
紫苑は少しこの青年の淹れた珈琲を飲んでみたい気分になってきていた。真っ直ぐに紫苑を見て話す瞳は力強い。紫苑よりも幾つか年上だろうか、若さの中に落ち着きがあるように見えた。
「お待たせしました」
暫くすると青年が気を付けてと言いながら紫苑にカップを差し出した。そうして驚いた事に会計しようとする紫苑に、金は要らないと言う。このカフェの珈琲は一杯千円する事は勿論知っている。
「その代り、飲んだ感想を聞きたい……」
「分かりました」
紫苑は理由を話して後で店長にお金を払おうと思っていた。新人らしい青年に負担させ事は心苦しい。
「あの、名前を?」
「櫻井紫苑です」
「俺は仁科真人」
「じゃあ、頂きます。ありがとう」
紫苑が時間を気にして急ぎ足でエレベーター方向に向かう姿を、仁科は黙って見送っていた。
「仁科ーっ、何やってるんだよ!」
店の中から呼ばれて我に返った仁科は、やっと現実に引き戻されたような顔になった。
「櫻井紫苑……」
宝物を見つけたような気分で、仁科はその名前を呟く。
「ねえ菊池さん、上の社員ってみんな社員証を首から下げていますよね?」
「ん? どうしたんだよ急に」
「いえ、多分上の人なんだろうけど社員証を掛けていなかったから」
「昼休みだと外して外に行く人もいるんじゃない?」
「そうですか……」
エレベーターに向かったのだから、このビルの関係者なのだろうが、また会えるという保障はどこにもない。そう思うと仁科は携帯番号くらい聞いておけば良かったと後悔した。
「あ、豆!」
「全く五月蠅い奴だな」
仁科は午後の十五分休憩で、一方菊池は、これからホールに入ろうとしている。その時間が重なって一緒に更衣室にいたのだ。
「今日の昼に豆を買いに来た人がいたんですけど、店長がいないって分かったら買わずに帰って行ったんですよ」
「ああ……きっと櫻井さんだろう?」
「菊池さん、知っているんですか?」
「知らないのは仁科だけだよ」
それほど常連なのか、それとも有名人なのか……だがはっきりしている事は、もう一度会えると言う事だ。
「よっしゃ! 何だか元気が出て来た」
「櫻井さんは駄目だよ。仁科が相手出来るような人じゃないから」
「どういう意味ですか?」
「ま、そのうち分かるよ」
そう言って菊池は、仁科を置いてさっさと仕事に入って行った。このカフェの従業員で紫苑を知らない人はいないのも、手を出せないのも事実。菊池も一度は紫苑に憧れたが、今は黙って見ているだけでいいと思っていた。それだけで癒されるのだから、これ以上は望むまいと思う。
仁科が店に戻ると店長も戻って来ていた。
「店長、お昼に豆を買いに来た方が……」
「ああ、櫻井さんだろう? 先ほど見えて買って行かれたよ」
「え……もう?」
「三時の珈琲タイムに出す豆が切れていたらしい」
がっくりと肩を落とす仁科に、店長は言葉を続ける。
「仁科君の淹れてくれた珈琲美味しかったらしいよ……それと、代金を払って行かれた」
「え……っ」
ご馳走したいと思った気持ちを踏みにじられた気分だった。
「その代わりに、今度自宅用にブレンドして欲しいと言っておられた」
「本当ですか?」
店長の言葉に、仁科は嬉しそうに顔を上げた。美味しかったという言葉は本当だったのだと思うと、口元が締まりなく緩んでしまう。そんな仁科を見て店長は溜息を吐いた。
「仁科君、櫻井さんはDOUMOTOの社長の第二秘書だ。お忙しい方だからそのつもりで」
「第二秘書……」
仁科は専門学校を卒業して、このカフェに就職した。この店がDOUMOTOの直営だという事は知っている。一般の会社の事は詳しくないが、社長の第二秘書は簡単になれない事だけは分かる。紫苑を知った途端に遠い人になってしまった。
「遠くで見ているだけにしておいてくれよ」
店長の言葉は面倒を起こさないでくれと言っているようなものだ。
「大丈夫ですよ。俺はそんな……」
「それならいいが」
そんな気持ちで見たつもりはないが、このショック加減を思えばもしかして、一目惚れだったのかもしれない。
翌日、仁科が遅番で出勤しようとカフェに向かって歩いていると、前から数人歩いて来る。一般の会社が入っているビルだ。そういう光景は度々目にするが、今日は何かしら雰囲気が違う。空気が違うと言った方が合っているような気がして、足を止めた。
「あ……櫻井さん」
その数人の中に忘れようと思っても、思い出してしまう人の顔を見つけた。だが紫苑は仁科に気づかないようだ。車止めの所で、三人は立ち止まって話をしている。仁科は何気なく近づいて様子を窺っていた。
「社長、夕方会食の予定が入りました」
「夕方? 誰だ?」
「会長ご夫妻です。勝手にお受けしておきましたが宜しいですか」
「全く、あの二人は……まるでストーカーだな」
自分の両親をストーカー呼ばわりする紫龍に、紫苑は失笑している。
「一応、僕の移動のお祝いだそうです。何なら、僕だけ行きますか?」
紫苑の提案に紫龍は苦虫を噛み潰す。
「何時の約束だ?」
「十九時です」
「分かった。それまでには戻るから絶対ひとりで行くなよ」
絶対という言葉に力を籠めて紫龍は言う。紫苑はそれには答えず、ただ緩やかな笑みを浮かべているだけだ。
そうこうしているうちに、紫龍を乗せる社用車が滑り込んで来た。
「行ってらっしゃいませ」
紫苑は、鞄を渡しながら綺麗にお辞儀をする。
「ああ、行って来る」
周囲の手前紫龍も、建て前的な口調で返していた。社長である紫龍と第一秘書の浅田が車に乗り込むと、滑らかに車は走り去って行く。
「こんにちは、昨日は美味しい珈琲ありがとう」
仁科の存在に気づいていた事に驚いた。
「いえ……」
紫苑の秘書としての姿に見とれていた仁科は、切り替えが効かずに何も言えない。
「櫻井さん、格好いいですね」
仁科の口から零れた言葉に、紫苑は目を丸くして驚いている。
「格好いいですか? 初めて言われました」
「ええ、格好いいです。あの社長も凄く貫録や威厳があるのに、櫻井さんも負けていないって感じでしたよ」
そんな事を言われ慣れていない紫苑は、くすぐったそうな笑顔を見せた。
「まだ新米秘書ですけどね。仁科さんの言葉嬉しいです」
仁科は名前を憶えてもらっていた事にも驚いた。そうしてやっぱり凄いと思う。さすが秘書だ。
「これからお仕事ですか?」
「はい」
「三時頃に伺いたいのですが、宜しいですか?」
約束通りに仁科にブレンドさせてくれると言うのだろうか。昨日の言葉は社交辞令ではなかったらしい。
「はい! 是非」
「では、後で」
そう言って去る紫苑の後ろ姿を仁科はずっと見送っていた。暫くして気持ちを切り替える。
「さあ、俺も頑張るぞ!」
仁科真人二十一歳。年齢よりも少々老けて見える仁科だが、一流のバリスタになる夢を持って頑張るぞ! とひとり心に誓った。
にほんブログ村ありがとうございました!
こんばんは、Kikyouです。
先日の生存報告、たくさんの応援ありがとうございました!
「雪の音」からにしようかと考えていたのですが、やはり紫苑にしようかと思い直し、予定よりも遅くなりました。その割には、何の事のない話になってしまいました^^;
でも、せっかくですので、アップです。久しぶりの更新なのに、拙い話で申し訳ありません!
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