真木の脳裏に、先ほど見た青年の驚いた顔が浮かぶ。
あの青年だ……札幌で偶然出会った美しい青年。何故彼が凜太郎の部屋に朝からいたのか、真木は全く分からなかった。赤い雪など絶対降らせない。真木は、自分が愚かしい事をしたと自覚はしていたが、それでもあの青年を許せなかった。凜太郎の寝室から出て来た青年を殴らなかった自分を、褒めてやりたいとすら真木は思っていた。
そうして、以前自分が凜太郎に揶揄するように言った言葉が、今の真木には重く圧し掛かって来ていたのだった。
『赤い雪が降りますよ』
間違っても赤い雪など降らせてはならないと真木は思いながら、自分が淹れた珈琲を美味そうに飲む凜太郎を見ていた。
優斗は、ようやく帰って来た自分の安アパートのテーブルの上に、丸まった紙幣を投げ置いた。
札幌の飲食店で夜のアルバイトをしている時に、その手の男達を何度か見た事があった。そういう男を否定する訳では無かったが、同類に見られた事は納得いかない。
優斗は台所の小さなシンクで顔を乱暴に洗うと、髪を梳かす為に置いてある小さな鏡に自分の顔を映した。凜太郎のように精悍な顔では無い中性的な顔がそこにはあった。優斗は男娼に間違えられた怒りだけで、間違えられる理由に気づいていなかった。
それから三日間、優斗がテーブルの上の紙幣に触れる事はなかった。だが、いつまでもそこに置いているわけにもいかず、優斗は携帯電話を開き凜太郎の名前を液晶画面に表示させた。
暫く迷ってから発信ボタンを押した。
「秋山です」
三回のコール音の後、凜太郎の声が聞こえて来た。優斗は怒りを抑え会いたい旨を伝える。凜太郎はいつもの調子で食事に誘うが、優斗は一度連れて行かれたあのバーを指定した。少し驚いた声だったが凜太郎は、日時を決めた後に楽しみにしているよと、電話を切った。
先に行って待つのがいやだったから、優斗は約束の時間よりも十分程遅れてバーに入った。忙しいだろう凜太郎はもうカウンターの椅子に腰を下ろしている。後姿を見ただけで凜太郎と分かる。体格も雰囲気もこの店内にいる誰よりも立派に思えた。だから余計に悔しい。
「こんばんは」
「やあ待っていたよ」
それは咎めるような口調では無く、本当に嬉しそうな声だった。
だが、優斗は座る事なくカウンターの上に手を突くと、握り拳の中から皺くちゃになった紙幣を落とした。
「今日は、これを返しに来ただけですから。じゃあ」
優斗はそれだけ言うと踵を返した。
「待ちなさい」
優斗の後姿に、凜太郎の厳しい声が掛かった。だが立ち止まるつもりは優斗には無い。乱暴に扉を開け、地上への階段を一気に駆け上がった。全てを振り切るように。
優斗が歩道に飛び出た途端、二人の男と鉢合わせしてしまう。
「あ、すみません」
そのうちの一人と肩が当たってしまい、優斗は素直に詫びた。痛いと思わない程度の接触だった。
「痛いな」
だが、返された言葉は優斗を責めるような口調だった。
「すみません」
優斗は仕方なくもう一度謝り立ち去ろうとしたが、もう一人の男に肩を掴まれた。泥酔という程では無かったが、多少アルコールが入っているサラリーマンには見えない二人連れだった。肩を掴んだ男が優斗の顔を覗き込む。
「へえ、君幾ら? 君みたいな子なら三万円出すよ」
その言葉が終わらないうちに、優斗は男に殴りかかった。
「ふざけるなっ」
叫ぶと同時に手が出ていた。だが相手は二人だ。殴られた男は一瞬茫然としたが、もう一人の男が応戦して来た。
だが優斗も負ける気などない。自分が凜太郎から受けた屈辱まで晴らすように、二人に挑みかかった。再び振り上げた腕を後ろから抑えた男がいた。
「止めなさい」
振り向かずともそれが誰の声か優斗には分かる。
「離せよっ」
優斗は凜太郎の手を振り解こうとするが、凜太郎の力は強くて解けない。そんな優斗の顔面に向かって喧嘩相手の拳が飛んで来たが、当たる寸前にその手も凜太郎によって遮られた。
「ふん、先客がいたのかよ。あんたは幾らで買ったんだ?」
優斗に幾らかと聞いて来た男が吐き捨てた。だがそう言った男は、その数秒後には歩道に叩きつけられ唸っている。いったい何が起きたのか優斗は直ぐには理解出来なかった。それほど素早い行動だったのだ。
「な、何やって……」
「行こう」
凜太郎は、何事も無かったように少し乱れたコートの裾を直すと、優斗の腕を取ったまま歩き出した。凜太郎の剣呑なオーラに男達は何も言えずに、ただ見送る。
「離せよ」
少し歩いてから、我に返ったように優斗が手を振り払った。
「あのお金は何?」
その目は、さっき男を殴った時よりも酷く冷たく見えた。でも優斗はここで怯む訳には行かない。まだプライドは残っている、僅かでも。
「あの金は……その前にひとつ聞いていい?」
凜太郎が自分のプライドの為に、手を出したのか、それとも優斗の為に出したのか気になっていた。
「いいよ、何を聞きたい?」
「さっき何故あの酔っ払いを殴ったの?」
「優斗を貶めるような事を言ったからだろう?」
何の迷いもなく凜太郎は即答した。その答えに優斗は、もしかしたら自分が抱いた怒りは間違いだったのか、とすら思えてきた。だが、現実に優斗は金を握らされた。
「で? さっきの答えは?」
「あれは、あんたが俺に払った金だろう?」
優斗は、もう凜太郎さんなどとは呼びたくなかったから乱暴な言葉を使った。
「私が、優斗に?」
「正確には、あんたの部屋に来た人……」
優斗の言葉を聞いた凜太郎は、何故か納得したような顔をした。やはりこの男の目的はさっきの酔っ払いと同じだったのかと、優斗は少し浮上しかけた気持ちを再び沈めた。
「申し訳ない事をした」
凜太郎は言い訳もせずにただ詫びを入れる。
「じゃあ、そういう事で。金輪際あんたと会う事は無いと思うけど」
そう言い捨てて優斗は、凜太郎から逃げるように駆け出した。その背中に自分を呼び止める声が聞こえたけれど、優斗は振り返るつもりは毛頭なかった。凜太郎の事をいい人だと思っていた自分が腹立たしい。そう思いながら優斗は、息が上がる所まで走り続けた。
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