雅は最近体調が思わしくなく、千尋に内緒で検査を受けた。
診断は癌……雅はうろたえる事無く、今後の事を聞いた。
医者は慣れているのか「このままだと余命三ヶ月」と淡々と雅に告げた。
雅は愛する者たちを一瞬で失っていた。それに比べたら死に行く準備も出来る事に安堵の吐息を吐いた。
だが自分ひとりならいい……千尋はまだ大学生だ、雅はそれだけが気がかりだった。
その夜雅は千尋に打ち明けた。
知らせるか迷っていたが、残される側にも覚悟があった方がいい事は、雅が身を持って知っていたから若い千尋に打ち明ける事にした。
「だからもっと早く病院で検査を受けておけば!」千尋が青い顔で雅を責めた……
「まぁそう怒るな、これも運命だ」
「………」
千尋はまるで自分自身を責めるように唇を噛んだ。
「あと三ヶ月もある……心の準備も、身辺整理も出来る」
「そんな呑気な……」千尋が呆れたように言うが「お前には迷惑かけるかもしれないが、一応心の準備だけはしておいてくれ」と雅は静かに諭した。
「やだ……そんなのヤダよ!」だが千尋は震える声で雅の言葉を受け入れようとはしない。
いや、簡単に受け入れられるわけが無い。
「千尋、運命は受け入れなくてはならないのだ。―――それがどんな運命でも」
三十五歳でこの世を去った優希に比べたら自分は長生きをした……そう思う雅だった。
そしてその夜から千尋は自分のベッドで寝る事をしなかった。
雅の部屋に布団を並べて敷き雅の隣で毎日眠った。
「ガキみたいだな……」そう揶揄されて、千尋は雅に背中を向けて眠った。
「千尋……俺は自分の好きな仕事をして、好きな奴も居て……そして千尋の親代わりにもなれた。もう思い残す事はない」
「……伯父さん、僕に……僕に観音菩薩を彫って」
突然の千尋の申し出に雅は飛び起きた。
「何?馬鹿な事言っているんじゃないぞっ!」
「僕は本気だよ……伯父さんがずっと拒んできた観音菩薩……僕が背負うから」
その日から毎夜布団に入る度に千尋は、その事を言い続けた。
まるで二十四年前の優希のように……
そして千尋の申し出に、雅の心が揺らいでいたのも事実だった。
(死ぬ前にもう一度彫りたい)雅には今から客を選んでいる時間は無かった。
そして彫りたい物は観音菩薩……もう一度優希を見たかった。
その思いは彫師としてなのか、男としてなのか?雅は自分でも良く判らなかった。
彫師として見たら千尋の肌は最高の素材だった。
もし千尋でなければ彫ったかもしれない……
いや千尋だから自分の思いの全てを彫れるかもしれない。
「後悔するぞ……」
「何もしないで後悔するよりはいい……」
「千尋……俺が一番初めに彫ったのが観音菩薩だった」
「伯父さん?」
「千尋、俺の……彫雅の最期にもう一度、観音菩薩彫らせてくれるか?」
千尋の伯父として人生を終えるか、彫雅として人生を終えるか……
思い悩んだ挙句、雅が選択したのは彫雅として終える方だった。
「……伯父さん、ありがとう」
「馬鹿、礼を言うのは俺の方だ……」
そして翌日から雅と千尋の闘いが始まった。
雅は病魔と闘いながら、千尋は想像以上の苦痛と闘いながら……それでも雅は千尋の白い背中に針を刺し続けた。
不思議と施術している時の雅は体調が良かった。
一心不乱に、何かにとり憑かれたように針を動かした。
普段よりも速いペースで進めていく、千尋の苦痛も大きいだろうとは思うが、それでも中途半端で終わらせる訳には行かなかった。
そして雅は初めての試みをしていた。
彫師になって三十年、誰にも施さなかった彫り方だった。
これが伯父としてたった一つ、千尋に出来る償いと感謝でもあった。
優希の時と同じように完成するまで自分の姿は見ない、という約束を千尋もちゃんと守っていた。
だがこの彫り方は普通よりも時間が掛かってしまう……雅の彫り物への執念と千尋の思いが通じ合って、雅は力尽きる事無く千尋の刺青を完成させる事が出来た。
彫り物が完成してから一週間。
千尋が初めて自分の背中を見せてもらえる日だった。
三枚合わせた大きな姿見に千尋は、自分の姿を映した。
「伯父さん!?」千尋が雅を睨むように振り返る。
―――千尋の目には何も映ってはいなかった。
だが千尋は自分が感じたあの痛みが幻だったとは思えなかった。
「完成祝いだ、一杯飲め」
雅にコップに入った酒を渡されたが、千尋は納得行かない目で雅を見つめた。
「大丈夫だ……とにかく俺を信じて飲め」
千尋は仕方なくそのコップ酒を受け取りぐいっとあおった。
あまり酒に強くない千尋は、コップ半分飲む頃には体が熱くなり、頬も薄く染まっていた。
―――雅が鏡を凝視している、千尋も釣られて鏡の中の自分を見た。
「!」さっきまでは何も無かった背中に、観音菩薩像がくっきりと浮き上がっていた。
「おしろい彫りだ……」雅も自分が彫れた事がまだ信じられないように呟いた。
「おしろい彫り?」
「ああ、普段では判らないが、体温が上昇した時にだけ浮き出る……」
雅は素人の千尋に背負わせるにはこれ以外に無いと思っていた。
それでも勿論障害はある……だがこれが精一杯の雅の愛情だった。
「伯父さん……彫雅の魂は此処にあるんだね……」
そう言う千尋の目から涙が溢れて、裸の胸までも濡らしていた。
(本当に優希と感性が似てやがる……)
雅の口元が緩んだのは、可愛い甥っ子に対してなのか、それとも面影を重ねた優希になのか……それは雅にも判らなかった。
「千尋……俺は最期の最期にお前の人生変えてしまった……悪い事をしたな……」
だが千尋の頬に触れた手は、もう頬を撫でる力は残っていなかった。
「そんな事ないよ、僕をここまで育ててくれて本当に感謝しているし、この身体だって……僕は後悔していない」
「千尋、ありがとうお前のお陰で俺は最高の最期を飾れた」
「僕は伯父さんと暮らせて本当に嬉しかったよ」
「そうか……俺も嬉しいよ……もう思い残す事は無い、千尋……幸せになれよな」
「僕は今まで幸せだったよ」
「もっと幸せになってくれ」
「うん……もっと幸せになるよ」
そんな千尋に安心したのか、斉藤雅は五十二歳のあまり長くない人生の幕を静かに下ろした。
(優希……待たせたな……)
僕の背に口付けを 序章『-雅-』 <完結>
■あとがき■
再投稿にも関わらず多くの方が読んで下さり、ありがとうございました。
初めて読まれた方へ
この話は「僕の背に口付けを」を完結させた後に、番外として書いた話です。
過去話なので、どうしても死にネタになってしまった事をお許し下さい。
こういう試みは初めてだったので、地雷の方もおられたかもしれません。
でも「僕の背に口付けを」を含め「雅」も私の中では、とても大事な作品になりました。
そして、mk様の「葬送」というタイトルのイラストと出会った事も偶然とは思えない程の事でした。
まるで書きおろしのようなイラストですが、これは全く単独でmk様がブログの目立たないメモなどという場所に格納していらした物を、偶然に見つけてお借りしたものでした。
(イラストに出逢ってからは、沿ったストーリーにしてあります)
ほぼ1年前の作品、多少の加筆修正はしました。
以前の作品は手直しをしたらキリが無い程に沢山あります……
長くなってしまいましたが、最後まで読んで下さってありがとうございました!!
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