普通の生活……朝起きて背広を着て、満員電車に揺られ会社に行く。
そして1日の仕事が終わると同僚と一杯飲みに行ったりするのかもしれない。
そのうち可愛い子と出会い、恋愛して結婚する……それが速水の言う普通の生活なのだろうか。
きっとその中に、速水との接点は何も無いのだろう。
体に染み付いた速水の匂いも自然に消えていくのだろうか?
そう考えただけでも、千夜は喪失感で一杯になってしまった。
「貴方はズルイ、また俺に決断させようとするのですか?あの時と同じように?」
「ああ悪い選択じゃないだろう?」
ずっと速水に背中を向けていた千夜は、体勢を変えて速水に向き直った。
正面から速水を見据え「貴方は俺じゃなくても相手は幾らでもいるんですもんね?」
と皮肉のような言葉を吐いた。
「ああ、体だけなら不自由はしないさ」速水はそう言って、千夜の言葉を軽くかわす。
「心はどうするんですか?」
初めて愛を知った、と言った速水の言葉は嘘だったのだろうか?
千夜は目を逸らさずに速水に詰め寄った。
「お前が心配する必要はない、黙って元いた世界に戻ればいいことだ」
だけど千夜は速水の瞳の中に、欲しい物を欲しいと言えない悲しみを見たような気がした。
もしかしたら、速水の孤独は千夜の想像以上のものなのかもしれない。
片方が意地を張るのなら、自分は素直になろう、と千夜は思った。
「俺は、貴方の傍から離れませんから」
「千夜!今なら自由になれるんだぞ?」速水の少し強い言葉が返ってくる。
「今までも、俺の心は自由でした……そしてその自由な心が貴方を求めた」
「馬鹿な奴だ……折角のチャンスを」
「爽輔さん……」
「卑怯だぞ……今名前で呼ぶなんて」
千夜の目には速水が、恋を知ったばかりの少年のように映った。
「A社の方はきちんと断ってもらえますか?速水さん」今度は普段通りに呼んだ。
「判った、後悔はしないな?……名前で呼べ……」
そんな速水に少し失笑した後に「はい、後悔はしません」とはっきり答えた。
「名前は?」
「意外と面倒くさい人なんですね?爽輔さん」千夜はそんな速水が可笑しくて仕方なかった。
その千夜の笑顔は、速水がずっと以前に剣道の試合を見た時に、千夜が見せた嬉しそうで爽やかな笑顔だった。
『愛おしい』お互いの心の中でその気持ちが大きく花開いたようだった。
そして、千夜が弟千里と話をする事が出来たのは、手術後3日経った朝だった。
「兄貴……?」まだ眠そうな目で千里がそう聞いてきた。
「ああ、よく頑張ったな具合はどう?」
「うん、何だか体が軽い感じがする……」
欠陥ある心臓は入れ替わり、千里の呼吸も体も軽くしてくれたのだろう。
「兄貴、暫く見ないうちに綺麗になったね」からかうような千里の言葉に千夜の心臓がドキッと跳ねた。
「馬鹿な冗談を言えるほど元気になったみたいだな」
そう言いながら自分とは質の違う、軽く色素の薄い髪をそっと指で梳いでやった。
「いっぱい心配かけてごめんね」
改まった千里の言葉に千夜の目尻にも涙がうっすらと溜まってしまう。
「早く元気になって、普通の生活が出来るようになればいいな」
「うん……ありがとう。母さんは?まだ風邪治らないの?」
「ああ、疲れていた所に風邪を引いて、ちょっとこじらせてしまったみたいだ」
千夜は頭の中で用意していた言葉をすらすらっと答えた。
「そう……慣れないこっちの生活で母さんにも一杯苦労かけちゃった」
「お前が悪いんじゃないから、気にしないで体力を付けて早く退院しろよ」
目を逸らさずに、千里に心配かけないように明るく微笑みながら言った…………
「うん……でもね僕……ずっと母さんに見守られているような気がしていた。夢も一杯見たよ、でもちょっと変な夢だったけど」
「どんな?」千夜は平静に接しようとしていても、千里の言葉に内心ドキドキしていた。
「あのね、僕や兄貴が小さい頃に仲良く遊んでいる夢とか、一緒にご飯食べている夢とか……」
「別に変な夢じゃないじゃないか?昔の思い出だろう?」
「……うん」
千里はその夢の中に母が出てこない事を不思議に思っていた。というか、母目線で自分と兄を見ていたのだ……それをどう兄に説明していいのか躊躇っていたのだ。
ドアが軽くノックされ、森川医師と速水が入って来た。
「どうだ千里君、苦しくは無いか?」
「あっ!速水先生……」
千里が小児科の頃から世話になった医師で、そして自分の移植手術の為に力を貸してくれた医師でもあった。
「先生……」千里は兄を見た時の安心観とは違う安心を、速水に覚えていた。
速水の大きな手の平で頭を撫でられ「頑張れよ」と言われると、いつも安心したのを思い出す。
千里の記憶に薄い父の手の平はこんなだろうか?といつも思っていた。
「先生ありがとうございました……」
「頑張ったね千里君、もう大丈夫だよ。あと半年くらいはこっちに居る事になるけどその後は、日本に戻って普通の生活が送れるから」
「はい、ありがとうございます」
「やりたかった事を何でもやるといい」
「先生、僕は迷惑をかけた家族や、お世話になった病院の方や……そして僕に心臓をくれた方とその家族に、一生感謝し続けて精一杯生きて行きます」
「ああ、そうだな、頑張れ」速水の励ましの言葉に嬉しそうな顔で千里が頷いた。
千夜は千里のその言葉をただ黙って聞いていた。
「あ、俺ちょっと飲み物買って来るっ」早口にそう言って千夜は、誰の返事も聞かずに病室を飛び出した。
(――――母さん)千夜は、ぼやける視界の中、やっと自販機の場所まで辿り着けた。
自分ですらこんなだ、この事実に千里が堪えられるのだろうか?
取り繕うようにポケットを探ったが、コインの1枚も無い事に気付いた。
ぼんやりと立つ千夜の背後から腕が伸び、投入口にコインを入れる音がする。
振り向かずとも、その気配と香りで誰の腕だか千夜には判った。
「大丈夫か?千夜」千夜はその声に自販機を見つめたまま、黙って頷いた。
「大丈夫か?千夜」
たったそのひと言が千夜の気持ちを楽にしてくれる。魔法の言葉だ。
自分には支えてくれる人が居る……それだけでも恵まれているのだ、強くなろう。
―――あと1日。
日本ブログ村とFC2のランキングに参加しています。
ポチっと押して下されば嬉しいです(*^_^*)
にほんブログ村
- 関連記事
-