「千夜さん?千夜さん?」
誰かに体を揺さぶられ千夜は深い眠りから目覚めた。
「え……?誰……此処は?」
直ぐには千夜の頭は働かず、自分を起こした女性の顔をじっと見た。
「坊ちゃまから、3時には起こすように言われていましたから。」
「坊ちゃま?」
暫くすると、ここは速水の部屋だった事を思い出す。
「あの……もしかして早苗さん?」
「あら、よく判りましたね?」名前を聞かれ嬉しそうな顔で早苗が笑った。
「坊ちゃまの旅行の支度をしに参りましたの」
「あ、速水さんは?あ、……手術……」
千夜はようやく少し頭が回転しだした。
「坊ちゃまは5時にはこちらに戻られるそうです、それまでにお食事を済ますようにとの事ですから、食べて下さいね」
ベッドの横に早苗は立ち、そんな事を話し出した。
だが千夜は布団に隠れた自分が何の衣服も付けてない事に気付き、出るに出られなかった。
「あの……俺着替えたいんですけど……」
「ああ、ごめんなさいね。着替えは此処に置いておきますね」
そう言うと早苗は寝室を出ていった。
置かれた着替えは新しい下着や衣服だった。これも速水に言われて用意したのだろう、千夜の持っている服では無かった。
速水との関係を知られてしまったような気がして、千夜は恥ずかしい気持ちで着替えを済ませリビングに顔を出した。
「あらお似合いですね、私が見繕って買って来たんですよ」
嬉しそうな顔の早苗に向かって「すみません、お幾らだったでしょうか?」
と千夜が尋ねると「あらいやだ、そんなのは坊ちゃまから貰っているに決まっているでしょう」と又笑う。
40代後半だろうか?早苗の明るさに、これから自分が楽しい場所にでも行くような気がしてきた。
だけど行く先は、悲しみも期待も不安も……そして別れも待っている場所なのだ。
「さあ食べて下さい、腹が減っては戦はできぬって言いますでしょう?」
早苗は千夜の身に起こっている事を知っているのだろう、そう言って多くの料理をテーブルの上に並べ始めた。
「私嬉しいんです……あ、ごめんなさいね、千夜さんは大変な時なのに」
「いえ……大丈夫です」
「坊ちゃまが、誰かの事をこんなに気に掛けるなんて始めての事なので……」
早苗は速水が一人暮らしを始めて10年、そしてその前は本家で10年速水を見てきたらしい。
「高校生の頃の坊ちゃんって、それはそれは生意気で、冷たくて……どうしようも無い子だったんですよ」
早苗の話は昨夜聞いた速水の告白の裏づけをするような内容だった。
そして速水のそんな性格は大人になり医者になっても変わらなかったという。
でもここ5・6年何か変わって来た、人としての温もりを感じるようになったと早苗は言った。
もしそれが千夜のお陰ならば……嬉しかった。
「ご馳走様、凄く美味しかったです」久々に食べた家庭料理だった。
「気を落とさないで頑張ってね、坊ちゃまに任せておけば大丈夫だから」
感情が豊かなのだろうか?さっきまで明るかった早苗は涙声でそう千夜を励ましてくれた。
「はい、ありがとうございます」
早苗の言葉に急に現実に引き戻された千夜であった。
その日の深夜の便で速水と千夜は、アメリカに向けて飛び立った。
だが、千夜が病院に到着する頃にはもう全てが終わっている予定だ。
「俺はエコノミーでよかったのに……」
ビジネスクラスのゆったりとしたシートに並んで、腰掛け千夜はそう言うと「長旅だ、ゆっくり休めばいい」と速水は言う。
自分は充分休ませてもらった、忙しい思いをしたのは速水の方だ。
それより何より千夜にとっては初めての飛行機、飛行機で旅行など今までする余裕などなかった。
千里も母親も同様だったはず、ましてはあんな体で千里がよく耐えてくれたと思った。
高所恐怖症というほどではないが、意外と言われるが子供の頃から高い所は苦手な千夜だった。
「怖いのか?」少し驚いたような、呆れたような顔で速水が聞いてきた。
「な・慣れてないから……」そう言いながら手の平の汗をハンカチで拭いた。
「ほら」速水はそう言うとそっと手を差し伸べてくれる。
以前なら手を差し伸べる事もそれを握る事も無かっただろう……
ちょっと嬉しいような気持ちで速水の手を握った。
たったそれだけ、手を繋いでいるだけで千夜の心も落ち着きを取り戻したようだった。
だが地上に降り立った時の事を思えば眠れるはずもなかったが、疲れている速水に負担を掛けるわけにも行かない。
そんな千夜の気持ちを察したのか速水は胸ポケットから錠剤を取り出し「昨夜飲んだ睡眠薬だ、飲んでおけばいい」と言う。
「でも……」
「それとも口移しで飲ませてやろうか?」
単なるからかいの言葉が甘い囁きに聞こえ千夜の顔が熱くなってしまう。
そして夕刻病院に着いた途端、過酷な現実が千夜を待ち受けていた。
手術に立ち会った森川医師の話では、弟千里の手術は無事に成功したとの事だった。
そして森川に案内されたのは、千里の元ではなく……暗く冷たい霊安室だった。
判ってはいたけど、覚悟はしていたけど……
「お別れして下さい」
森川は冷静な言葉を発しながら、母親の顔に掛けられた白い布を捲った。
4ヶ月ぶりに見る母の顔は誰かが化粧をしてくれたのだろう。
それはまるで生きているかのように綺麗で、微笑むような死に顔だった。
「―――かあさ……ん……」
その顔を見た途端、鳴りを潜めていた罪の意識が頭をもたげてきた。
「かあさんっ!!かあさんっ!!ごめんなさい……ごめんなさい母さん!」
母親の亡骸に縋るように謝罪を口にする千夜の背後に、速水はただ黙って立っているしかなかった。
「千夜……きちんとお別れしなさい」
千夜は速水の声に振り返り、やっと速水の存在を思い出したかのような顔をした。
「はい……」
これからがもっと大変なのだ……千夜はそう自分に言い聞かせた。
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