速水の講義の間、車の中で待っているようにと言われた千夜は、昨夜の疲れからか何時の間にか、うとうと眠ってしまったらしい。
そして誰かの話す声で意識は目覚めたが、体が金縛りにあったように動かない。
これ程までに疲労が溜まっていたとは自分でも気づかなかった。
『金は幾らでも出す、早く手を打て』
夢の中なのか現実なのか?
そしてその声が速水の声だと気づいた。いつの間にか講義を終わらせた速水が、戻って来ていたらしい。千夜は慌てて起き上がって運転席のシートを元に戻した。
「す・すみません、寝てしまっていました!」
「だから今日は休めと言っただろうが、まあいい俺のマンションに行ってくれ」
その言葉に千夜の体を気遣っての事だったのを知り、内心嬉しくもあった。
車を走らせながら、バックミラーで速水を盗み見た。
疲れたように目を瞑り、シートに凭れかかっている。こういう姿は普段あまり見かけない。
「千夜、今週手術は幾つ入っている?」
「明日から4日間です。」千夜は今週のスケジュールなら手帳を見なくても答えられる。
「そうか、4つか……」そう呟くと、胸ポケットから携帯を取り出し電話を始めた。
話の内容で相手は、外科部長の松井だと察しがついた。
「今週予定している手術を、明日と明後日の2日でやる、予定を変更しておいてくれ」
それだけ言うと速水は電話を切った。
いつもながら用件を一方的に伝えるだけの電話だ。
今頃松井外科部長は、電話を握り締めて呆然としているだろう。
そして蜂の巣を突付いたような騒ぎになりながらも、段取りを始める事だろう。
「どうしてそんな無茶をなさるのですか?」
「……余りよくない」
「え……っ?」速水の言いたい事を、理解出来なくて千夜は聞き返した。
「千里君の容態があまり芳しくない、明後日の手術が終わったらアメリカに発つぞ」
「……千里の容態が……あの、ドナーは?」
「まだだ」
(―――千里)
ハンドルを握る手が、小刻みに震えている事に気づき、ぎゅっと強く握り締めた。
それ以上車の中で速水が口を開く事もなく、車は速水のマンションに到着した。
「お前も来い」
「……はい」
千夜は弟の事を考えると、身が切られるような痛みを感じた。
渡米して3ヶ月半……まだまだ順番は巡っては来ない。ドナーが現れるのを待つ身は辛い……それは誰かの死を待っているからだ。
多分優しい千里はもっと辛い思いをしているのだろう。
(自分の選んだ道は間違いだったのだろうか?)
呆然としているうちにエレベーターは、速水の部屋の階で小さな機械音を立て止った。
黙って速水の後を着いて歩く……足が重くてだるい、この体の重さは昨夜の件だけでは無い。
千里の容態も、そして誰かの死を待つ自分も、全てが今の千夜には重かった。
「入れ」そう促されて自分が、初めて速水のマンションに来た事を思い出した。
初めて見る速水の部屋は綺麗に片付いていた。
まるで女性の手が加わったような整理された部屋に、少し動揺してしまう。
自分がここに来て良かったのか?と。
「何をぼっとしている?入れ」と速水にもう一度促される。
「失礼します……」何処を見回してもピカピカに磨かれた部屋に入り、戸惑う。
「そこいらに座っておけ」目で革張りのソファを指され、重厚なソファに軽く腰掛けた。
「腹は減ってないか?」
「いえ……あっ少し、俺何か作りましょうか?」
「冷蔵庫の中に何か入っているはずだから、適当に食べておけ、俺はシャワー浴びてくる」
そう千夜に言うと、速水はネクタイを緩めながら浴室の方に行った。
そう言われても勝手に他人の家の冷蔵庫を開けるのには躊躇いがある。
だけどそれ以上に興味があった、速水が自分で料理などするはずもない。
一呼吸置いてから冷蔵庫の扉を開けてみた。
器に盛られたサラダにはきちんとラップが掛けてあり、料理が入っているらしいタッパにはポストイットが貼られていた。
料理名と電子レンジで温める時の為だろうか、時間が綺麗な字で書かれていた。
千夜は見てはいけない物を見てしまったような気持ちで、慌てて冷蔵庫の扉を閉めた。
速水が昼間、手塚忍医師とまぐわっていたのを見た時以上に動揺してしまった。
間違い無くここには女性の出入りがあると確信した千夜は、またソファに戻り座ってしまった。
空腹などもう感じてはいない、ここに居てはいけないと思う気持ちの方が強かった。
だけど千里の話を聞かないで、帰るわけには行かなかった。
千夜は呼吸を整えながら、速水がシャワーを済ませ出てくるのをただ待った。
15分ほどしてバスタオルを腰にまいただけの速水が、すっきりした顔で戻って来た。
「何だ、何もなかったのか?」
「いえ……やっぱり勝手に冷蔵庫を開けるわけには……」
一度見てしまったと言えずに、常識人のふりをして千夜は答えた。
「早苗さんの作る物はみな美味いぞ」
「早苗さん……?」
その人が速水の留守の間にもこの部屋に入れる人の名前なのか……
「ああ、もう10年も面倒見てもらっている家政婦だ」
「え……家政婦さん?」千夜は漫才のオチみたいな話に、失笑と安堵を隠せなかった。
「どうかしたか?」
「いえ、それより千里のことですが……」
今は本当に家政婦なのか、そうでないのかよりも千里の事を優先だと気持ちを切り替えた。
「ああ、その話の前にお前もシャワー浴びて来い」
「え?は・はい……」
着替えが無いと言おうと思いつつも、速水の前では自分に服など必要ない事に気づき、その言葉は呑み込んだ。
「あの……もし俺の勘違いならすみません」千夜はそう先に謝ってから話しを続けた。
「さっき車の中でどなたかと話していたのは、千里の事なのですか?」
『金は幾らでも出す、早く手を打て』
千夜は車の中で目覚めた時に聞こえた会話が、ずっと気になっていた。
「お前はそんな事は知らなくてもいい、早く風呂に入って来い」
「……はい、ちょっとお借りします」
教えた貰った浴室に行き、シャワーを浴びながら、さっきの問いを否定しなかったのが答えだと千夜は考えていた。
千里に多額の金をつぎ込んでも、回収できる見込みも全くないし、自分がスポンサーだと公言も出来ない速水なのだ。
千夜の家族のように、治療費に困っている患者は大勢いる。
その一人一人のスポンサーになる事など無理だ。直ぐに破産してしまうだろう。
千里に金を出した事が世間に知れる事は、色々な意味で至極都合が悪いのだ。
それなのに更に融資しようと言うのか?
アメリカでは前払い制だ、だから多くの金を積んだ者が優先される事は暗黙の了解だった。
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