「お待たせしました」
真木はそう言うと空いている凜太郎の隣の席に腰を下ろす。
「うん、ご苦労さん。明日はゆっくりするといい」
「はい、ありがとうございます。社長は?」
「私は、特にやることもないし、真木のようにデートする相手もいないからね」
「それは社長が、えり好みし過ぎるからでしょう?」
「私は運命を信じているのだがね……赤い糸の運命を」
本気なのか真木を揶揄しているのか分からないが、そう言うと凜太郎はまた頬を緩める。泣かせた女性の数は、数えきれない程なのに本人曰く、勝手に泣いたらしい。この男を本気で落とす事が出来る女性は果たしているのだろうか、と真木は少し気持ちが重くなってしまった。
凜太郎には温かい家庭を築いて欲しいと心から真木は願っていた。そうでなければ自分が諦めた意味が無い。一度諦めてしまえば違う方にも目が行き真木は今、優しい恋人と幸せになりつつあった。真木は自分の気持ちを凜太郎に告白した事はなかったが、勘の良い凜太郎が気づいていない筈は無かった。それでも傍に置いてくれる凜太郎に感謝し、別の意味で憧れの男性だった。
「そろそろ時間かな?」
凜太郎が、そう言って椅子から下りた。一八六センチある身長にカシミアのコートがとても良く栄えていて、その格好良さを見て真木の心がまた少し揺さぶられてしまう。平凡な自分が凜太郎ほどの男と並んで歩ける事が不思議なくらいだった。地味で真面目だけが取り柄だと自分も思うし、周囲の意見も多分同じだろう。
凜太郎の横には華がある人が似合うのだろう。例えばあの……そこまで考えて真木は、その思考を全てストップし、リセットした。
真木の脳裏を掠めたのは、夕方公園で会った青年だったからだ。あの時、運転席に座ったまま真木は様子を眺めていた。凜太郎の手を取ることなく、さっさと行ってしまった青年。いや少年かもしれないが、意志の強そうなきりっとした横顔に漆黒の髪、透き通るような白い肌。ちょっと見には平凡でどこにでもいる若者の様だったが、車の横を通り過ぎた一瞬の時に、真木ですら見惚れた。華も影も持つ不思議な雰囲気の青年だった。凜太郎が興味を持ってもおかしくはないが、簡単に赤い雪など降るはずがないと、真木は心の中で否定した。
ファーストクラスのシートに並んで腰を下ろすと、やっと真木の口から安堵の息が漏れた。あとは東京に到着するまでの一時間四十分、寝て過ごせば良いのだ。燻った心と体は明日新しい恋人が癒してくれるだろう。恋人は真木だけを大事にしてくれている。報われない恋など早く諦めろ、と優しく囁いてくれた……それでいい。
「慣れない雪道の運転ご苦労だったな」
「いえ……」
こんな風に労わってもらえれば、真木は何も不満はなかった。疲れた目を休めるためにそっと目を瞑り、シートに深く身を沈めた。隣のシートで凜太郎が、かさかさと新聞を広げる。紙の擦れる音が真木の疲れた体に心地良く響いてくれる。
その頃、優斗は慣れない搭乗手続きに四苦八苦しながら、やっと機内に乗り込む事が出来た。何も考えずに前の人について乗り込んだ。
(おお……凄い)初めて見る機内は想像以上に立派なものだった。優斗は切符を片手にシートのアルファベットを確認しながらゆっくり通路を歩く。
「お客様……」
出発時刻が迫っているのだろう、CAが優斗に話しかけて来た。
「お席までご案内致します」
その言葉に優斗は、手にしたチケットを見せる。
「こちらで御座います」
CAに誘導されながら、優斗は子供のように後を付いていく。随分と歩かされて案内されたシートは、さっき見た席とはだいぶ違い窮屈そうな席だった。その上、四人掛けのその真ん中。そう大柄ではない優斗ですら窮屈だと感じる。それでもここに座っていれば確実に東京に行ける。それだけを考えて優斗はシートベルトを機内アナウンスに従って締め、これからの生活を思い武者震いした。
「真木、そろそろ到着だ」
シートを少し倒していた真木に、凜太郎は声を掛けた。
「あ……眠っていました。社長はずっと起きておられたのですか?」
「ああ……楽しい事があったからね」
真木が驚いた顔で凜太郎を見るが、その楽しい事の内容は教えてくれそうになかった。ただ凜太郎は本当に嬉しそうな顔をしていた。
「真木は、誰か迎えに来ているのか?」
多分凜太郎は、真木の恋人が迎えに来ているのか聞いているのだろうが、社長の共で出張したのに、恋人に迎えに来てもらうわけにはいかない。凜太郎を部屋に送り届けるまでが自分の仕事だと考えていた。
「いえ」
「そう、では空港に着いたら帰っていいよ」
「え……?」
「私は用事が出来たから、真木が車を使いなさい」
「社長は?」
「私は適当に帰るから気にする事はないよ」
こう凜太郎に言われてしまえば真木には何もする事はなかった。同行する事をやんわり拒否されてしまった寂しさは隠せなかったが、そんな女々しい事を言える立場ではなかった。
「では、車を使わせて頂きます」
「気を付けるように。疲れているのに運転させて悪いな」
「いえ……」
優し過ぎる上司の言葉は、逆に他人行儀に感じさせる。真木は笑顔の奥に寂しさを滲ませた。
そんな真木に気づいているくせに、凜太郎はそれ以上言葉を繋げる事をせず、じゃあと軽く手を上げて真木に背中を向けた。
「お疲れ様でした」
真木は凜太郎の背中が人混みに掻き消されるまで見送った。
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