もう何も残ってはいない。守る者も守ってくれる者も今はいない。全ての枷から外れ自分は自由なのだと考えても、本当は寂しくて仕方がなかった。
幼い頃から温かい家庭とは縁がなかったが、十歳も年の離れた妹だけは可愛かったし、可愛がった。だがその妹も母に手を引かれ新しい家族の元に行ってしまう。
妹が三歳の時、やっと母は離婚を決意した。物心ついた妹が酔った父に脅え泣き叫ぶから。
両親の離婚で、家族がばらばらになる事など、世間では珍しい事ではない。父親のDⅤに泣かされた母が幸せになればいいと思った。義父は一緒に来いと言ってくれたが、その目の中に戸惑いの色を見た。もうお互いに気兼ねまでして、生きなくてはならない程子供ではない。その分、妹を大事にしてくれればと願った。その為には自分が近くにいない方がいい。だが、実の父親の元には帰る気持ちなど微塵もない。
「はぁ……冷たくて気持ちいいな……」
優斗は誰もいない公園の白い大地に身を投げ出し、大の字に寝転んだ。公園の脇を通り過ぎる人はちらっと視線を投げかけても、声を掛けることはいない。今夜にはこの土地を離れる。優斗にしてみれば大地に抱かれる最後の時だ。誰にも邪魔はされたくなかったので、人々の無関心は丁度良かった。
生まれた時から、この北の大地に育ち雪にまみれていた。東京へ行けばもうそんな機会などないのだ。あまり良い思い出のない土地だった。清々する。その思いが強がりだと分かっていながら優斗は、手の平に触れた雪をぎゅっと握りしめた。
桐山優斗、今日二十歳になった。
高校を卒業してアルバイトを掛け持ちし貯めた僅かな金と、旅行鞄ひとつだけを持ってこの街を出ようとしていた。この時はまだ将来に夢も希望もあった。
「やばっ、飛行機に乗り遅れる」
母親の再婚相手が買ってくれたチケットだ、無駄には出来ない。東京への片道切符だけで優斗は体よく――捨てられた。いや、自分が差し伸べられた手を取らなかったのだ、それでも捨てられたような気がしていた。父親の戸籍に入ったままの優斗に対して、母の再婚相手は何の責任もない。切符だけでも有難いと思わなければならない。
優斗が立ち上がろうとした時に、真上から覗き込む顔があった。
「君、具合でも悪いの?」
黒いコートを身に纏った男が心配そうな顔をして優斗を見ていた。
(高そうなコートだな……)
優斗は、問いかけには答えずに、その一目で高級と分かるコートを見ていた。
「大丈夫? 立てないのかな? 救急車呼んだ方がいい?」
偽善者なのか人がいいのか分からない視線と言葉を、この男は簡単に優斗に投げかける。
「大丈夫です」
優斗は男が差し出した手を無視して元気よく立ち上がり、ぱんぱんと体に付いた雪を払って鞄を手に持った。
「じゃあ」
これ以上ここに立ち止まるのは時間の無駄だ。そう思って優斗は男に軽く会釈をすると駅に向かって歩き出した。
残された男は、少し驚いた顔でその後ろ姿を眺めている。
「社長、そろそろ時間ですよ」
男の背後から、フレームレスの眼鏡を掛けた男が声を掛ける。
「ああ、魅力的な目をしていた。名前を聞いておけば良かったかな」
黒いコートの男は、口元に笑みを浮かべながら、開けられた後部座席へと身を屈めるように乗り込んだ。
「また、悪い癖を出さないで下さいよ」
ハンドルを握りながら溜息混じりに言う男は、口元を緩める事はなかった。
「真木……うるさいよ。私の運の良さは知っているだろう?」
「はいはい」
真木と呼ばれた男は、会社設立時から片腕として過ごしてきた。仕事以外の話となれば気軽な口を聞ける程の付き合いも信用も得ている。
秋山凜太郎、二十九歳。現在多くの会社を経営し、世間では若手実業家としてもてはやされていた。運だけの男と陰口を叩く輩もいたが、決して運だけでは今の地位は築けない。多くの事を勉強し、努力する事を惜しまない。そして何よりも勘の良さは動物的だった。
「もう一度会えるよ」
凜太郎が後部座席から、嬉しそうに呟く。
「はぁ……」
真木は、さすがにそれは無理だろうと思った。出張先の遠い土地ですれ違った程度の縁、そんな人間と再び出会う事など奇跡に近い。
「赤い雪が降りますよ」
揶揄するように真木は、空を舞う白い雪を見上げながらそんな言葉を呟いた。
「ふふふ、いいね。赤い雪を降らせてみせようか?」
凜太郎が言うと本当に降るかもしれない。何故か真木は背筋が冷たくなり、ぶるっと体を震わせた。赤い雪など見たくない。
「着きましたよ」
真木の声に、後部座席でうつらうつらしていた凜太郎は、ゆっくりと瞼を開けた。この土地に来て精力的に動き回り、さすがに疲れが蓄積されていたのだろう。
「車を返却して来ます。まだ時間に余裕がありますから上で珈琲でも飲んでいて下さい」
「ああ、そうさせて貰うよ」
乗っ取り屋と呼ばれた事もあったが、凜太郎は潰れそうな会社を復活させるのが大好きだ。勿論、立て直す基盤が無ければ乗らない。少し手を加え知恵と資金援助をすれば、傾きかかった会社が蘇る。勿論株の半分以上を買い占める事も凜太郎は忘れてはいない。働いている人間には何の影響もなく、逆に不安定だった給料が安定し感謝される。そして秋山グループの系列または子会社として名を連ねていくのだ。
やる気のない名ばかりの社長は会社を追われてしまうが、それも自業自得。そしてそれは凜太郎の想定内である。全く恨みを買っていないとは言えないが、それは、はっきり言って逆恨みというものだ。
真木はレンタカーを返却し、二人分の搭乗手続きを済ませてから、凜太郎が待つカフェに向かった。カフェと言っても洒落た店ではない、全国チェーンで名を知られている珈琲店ではあるが、空港を利用する人々が気軽に、珈琲と軽食を口にする事の出来る簡易な造りの店だ。
だがそこのカウンター席に座る凜太郎は遠目からでも分かるほどに、格好の良い姿をしていた。上背もあるが、座る姿勢が綺麗だった。ざわめいた店内で、凜太郎の周りだけが空気が違うように感じる。凜太郎の背後のテーブル席の女性三人が、ひそひそと顔を近づけるように何かを話し、そして凜太郎の方をちらっと見る。そしてまた顔を近づける。
残念な事に凜太郎はそんな女性たちには全く興味ない素振りで、珈琲カップを口に運んでいる。その口元は相変わらず緩んでいた。
◆◆まだまだ未完の作品もあるのですが、休養中に書き始めた(真冬にです^^;)ものから先に更新して行こうと思っております。
「ゆきのおと」というタイトルです。
最後まで迷って、考えて中々決まりませんでした。
未だにこのタイトルで良かったのかな? と考えてしまいます。
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