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天使が啼いた夜(修正版)1

 01, 2010 00:00
櫻井紫苑(さくらい しおん)は学生課の掲示板の前で溜息を漏らしていた。条件の良いバイトを紹介してもらっても、二、三ヶ月で首になってしまう。イヤ実際首になっている訳ではないのだが、辞めざるを得ないのである。

 そんな紫苑が不意に後ろから肩をポンと叩かれ、振り向くと学生課の職員の山口が立っていた。
「そろそろ来る頃だと思っていましたよ」
この山口には、条件の良いバイトを幾つも紹介してもらったのに本当に申し訳なくて合わせる顔が無い。

「高校の中間考査の結果が出る頃だと思いまして……又ダメでしたか?」
「はい、僕は人に勉強を教えるのは向いていないみたいです」
実際今まで三人教えてきたが、成績が上がった生徒は一人も居なかった。上がるどころか、大幅に下がってしまい家庭教師を続けられる状況ではなかったのだ。
「でも生徒には辞めないで、って泣かれたのでしょう?」
「えっ?どうして判るのですか?」

ふふっ判ってないのは櫻井君だけなのだけどね。二十八年生きてきたけど、今まで見知っていた全ての中で三本の指に入るだろうと思われる美人だ。そんな家庭教師に教わる年頃の男子生徒が平静で居られる筈がない。
きっと教科書など見もしないで、端正な横顔を眺め、口から発せられる公式を愛の囁きと聞き「わかった?」などと見つめられると「愛している?」と聞こえているのだろうな?
内心その生徒達に同情してしまうよ、と山口は心の中で呟いていた。

「又家庭教師お探しかな?」
揶揄するような山口の問いに力なく紫苑は答える。
「イエ、もう家庭教師もコンビニもファミレスも無理です。工場の流れ作業とか、倉庫整理とか、そんな黙々とやれるのがいいです」
紫苑は本当に人と関わるバイトは避けたいと思っていた。自分のせいで成績が下がったり、今までいい雰囲気だったりした職場が、剣呑とした雰囲気になるのはもうイヤだった。世間では自分の力など通用しないのだ、と思い知らされているようで辛かった。
早く大人になりたいのに。ならなければならないのに。

「いい所がひとつありますよ、アパレル関係で棚卸とか入庫してきた製品のチェックとかの軽作業が」
山口が言い終わらないうちに「お願いします!!」と紫苑はそのバイトに飛びついた。
「昨日求人が来たばかりだから、まだ貼り出しはしていなかったのですよ。櫻井君は運が良かったですね」
山口の言葉に紫苑の顔が嬉しそうに輝いた。

「ちょっと十分程待っていてくれる?紹介カードを切って来るから」
そう言い残して、山口は事務室へと消えて行った。そんな山口を待ちながら紫苑は初夏の兆しを見せる空を見上げた。

―――もうすぐ一年。

紫苑が二十歳の誕生日を迎え数日経ったある日、祖母に呼ばれて部屋に行くとそこには弁護士の南條賢介が鎮座していた。
「南條先生ご無沙汰していました。お元気でしかた?」
「ああ、紫苑も元気そうだな?」
などと挨拶を交わしていると傍でにこにこ様子を見ていた祖母が、全く思いもしなかった事を口に出したのだ。

「紫苑、私はこの家を売って有料老人ホームに行くことにしました。あなたには大学の近くにマンションを用意してあります。来週からそこでお暮らしなさい」
さも来週からちょっと旅行に行ってくる、って感じの気軽さで祖母は言った。いったい何を言われたのか、紫苑は暫く理解できなかった。
「全て南條先生にお任せしてありますから」
「何ですか?老人ホームって?どうして?おばぁ様は、まだそんなお年ではないじゃないですか!」

普段物静かな紫苑にしては、珍しく興奮した口調だった。
「それにどうして僕が居るのに老人ホームに行かなければならないのですか?まだ僕は学生で力も経済力も無いけど……あと数年したら、ちゃんとお祖母様を支えて差し上げられます」

今にも泣きそうな紫苑を余所に祖母は微笑んだ。
「あら最近の老人ホームって凄いのよ?特にあちらは、病院も隣接しているしお食事も美味しいし、環境も素晴らしいのよ」
頬を上気させて愉しそうに語る祖母を見ながら紫苑は、まだこれは夢?何かの冗談?という顔をしている。
「じゃ、私はお友達と約束がありますから、詳しいことは南條先生に聞いて下さいね」
祖母は何か言おうとする紫苑に背中を向けて部屋を出て行ってしまった。


紫苑の母方の祖母の小山田咲(おやまだ さき)は気丈で上品な女性だった。娘夫婦を亡くして十歳の紫苑を引き取り育てて来たのだ。娘の忘れ形見というだけではなく本当に紫苑が可愛かった。
孫って目の中に入れても痛くないと言うけどまさにその通りだった。

でも甘やかしてばかりは居られない、人間いつ何時何が起こるか判らない。甘やかしたい気持ちを抑えて随分と厳しく育ててきた。男の子だけど、行儀作法、一般常識、書道、料理などと自分が教えられる全てを教えて来たと思っている。お陰で何処に出しても恥ずかしくない青年に育ってくれた。
頭も良い、咲に負担を掛けないように国立大学にも受かってくれた。実際経済的には何の心配も要らない資産を咲は持っていたが、多分紫苑はその事を詳しくは知らなかったのだろう。


―――三ヶ月前に咲は癌の宣告を受けたのだ。初期の段階なので、一度の手術とあとは抗癌治療で五年再発しなければ……。
但し、このことは紫苑には打ち明けていないし、そのつもりもなかった。絶対紫苑には知られないようにと、それが咲の願いだったのだ。
それから今は二代目になった南條弁護士や隠居している南條の父、恵吾の尻を叩いて大急ぎで色々な手続きをさせたのだった。

そんな祖母咲の胸中を知らぬ紫苑は(お祖母様は僕から解放されたかったのだ)と寂しく思っていた。でもそのうちに自立して迎えに行くから。それだけが紫苑の支えだったのだ。


そんな状況で紫苑が一人暮らしを始めてもうすぐ一年……また暑い夏がやって来るのだ。

「櫻井君待たせたね」
事務室から出て来た山口は紫色のカードらしき物を手にしていた。


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